ノンフィクション作家の石井光太氏のツイートをきっかけにして、数日前から「新潮社の校閲がすごい」という話題が一部で盛り上がっているようです。けっこう数多くの作家、ライターらが「ここの校閲はすごい」「この会社の校正はすごい」というツイートをしています。
新潮社の校閲は、あいかわらず凄い。小説の描写でただ「まぶしいほどの月光」と書いただけで、校正の際に「OK 現実の2012、6/9も満月と下弦の間」とメモがくる。このプロ意識! だからここと仕事をしたいと思うんだよなー。 twitter.com/kotaism/status…
— 石井光太さん (@kotaism) 2013年5月4日
何でしょうね、芸能界であまり表に出てこなかったダンスの”振付師”たちへの賞賛が一時期テレビでブームになっていたと思うんです。そうして「あの人はすごい」なんて言われていた人が、テレビにも出始めた。それ以前は振付師で表舞台に立つ人ってほとんどいなかったと思います。あんな感じ。表舞台に立つ人間を支えている裏方の人間の仕事って、なかなか表に出ませんからね。なにかのブームをきっかけにスポットライトが当てられる、今回の場合は石井氏のツイートがきっかけだったんだと思います。
僕も高校演劇では裏方を担当した人間ですから、表舞台に立つ人を支える仕事の大切さって、それなりに知っているつもりです。阿川大樹さんもツイートの中で、校閲という仕事へのリスペクトを知ってもらいたい、と書いています。
本というのはある意味で、「作家」と「編集・校正・印刷等々」との共同作業で作られるものであり、合作でもあるのでしょう。
雑誌などで「このミステリーがすごい!」「このライトノベルがすごい!」という作品のジャンルにスポットライトを当てたものは見かけますが、こういう製作過程まで見せた「この校閲がすごい!」「この編集がすごい!」という特集があったら、それなりにウケるかもしれません。編集って何も出版社には限りません、フリーランスで校閲を請負う方もいらっしゃいますから、”名校閲者”が登場するかもしれません。
もっとも、こういうことを嫌がる人もいることでしょう。読者側の抵抗感よりも、作り手側の抵抗感ですね。裏方は表に立つべきじゃないんだ、という意識を持った編集社、校閲担当の人は相当多いのではないでしょうか。職人的な気質として、そういうのってあると思います。演劇でも大道具担当の人が「俺があんまり表に出ちゃいけないんだよ」と言っていたりします。校閲や編集に限ったことではありませんね。それに、完成系しか見せたくないというこだわりを持っている作家もいることでしょう。
だから現実的に見れば「職人気質」から表に出たがらない人が多いことも念頭に入れつつ、「この校閲がすごい!」というのを考えてみましょう。
「この校閲がすごい!」の場合、校正用のゲラ刷りと完成稿との両方を掲載しなければなりません。この時点で誌面が窮屈になりそうです。ページを上下2:1くらいの比率に分けて、上側をゲラ刷り、下に完成稿を少し小さな文字で入れるというのが良いでしょうか。
要は編集の作業過程のワンシーンを切り取って、校閲にスポットライトを当てていろいろな小説を並べてみよう、ということです。
問題点をあげるとすると、校閲が縦横無尽の活躍ぶりを見せている作品というのは、それを最初に書き上げた作者がけっこうミステイクや見落としが多い人だと思われてしまうという部分かもしれません(^^;