花に惑う

2011年7月5日



 

 僕が花を枯らしたのは三度目だ。最初は小学生の頃、水遣りが面倒になってベランダに放っておいたら、いつの間にか干からびていた。二度目は高校二年生になった年の春のこと。水の遣り過ぎで根を腐らせてしまって、花はあっけなく落ちた。そして今回が三度目だ。

 もともと植物を育てる趣味は無かった。過去に枯らした花はどちらも、どういう理由だったのかは忘れたが、人から貰った物だった。貰い物ならなおさら腐らせては悪い、と思う気持ちはあったものの、自分の性に合わない贈り物だったと言うしかない。花を贈られるより、銭金のほうが自分の好みに合っている。

 そのことは彼女も知っているはずだった。なのに、彼女はわざわざ花を僕に育てさせた。僕が断る隙もないまま、半ば強引に。まったく、女の子にはかなわない。

 

 

 三石恭子が大きな植木鉢を持って僕の部屋を訪ねてきたのは、半年前のことだった。梅雨を目前に控えた初夏の気だるい昼下がり。午後の講義が休みになったから、と言って恭子はこの部屋にやって来た。鉢の中には黄色い花が、力なく根元を見つめるかのように俯き加減に咲いていた。

「なんだい、それ」

 僕が尋ねると恭子は、えーっと、としばらく思い出そうと考え込む。こういうときに芝居がかった仕草が自然と出てくる辺りが、演劇部員らしい彼女の癖だ。

「そうだ、思い出した。コロンバインです」

 恭子はいつも、一つ年上の僕に対してですます口調で喋る。

「コロンバイン。ああ、あの銃乱射事件があった所ね」

「違います」

「違いますか」

 僕は恭子の喋り方を真似してからかった。

「違います。どう見ても違うじゃないですか、高校と、花ですよ」

「花の高校生だろ」

「上手くもないこと言わないで下さい」

「上手くなかったか」

「日本ではセイヨウオダマキって呼ばれてる花なんだそうです」

 そう言って彼女が見せてくれた鉢には、まだ花が咲いていない。恭子は鉢植えを抱えたまま、寝転がっている僕のすぐ隣やってきて、畳にちょこんと腰を下ろした。

「さっき花屋さんを見てたら、この花の写真が綺麗だったから買って来たんです」

「得てしてそういうものは写真写りが良いと決まってるんだよ」

「そうかもしれませんね」

「で、それを何でうちに持ってくるんだ」

「ちょっと預かってて欲しいんです」

 綺麗だからと買ってきたばかりの花を急に預かって欲しいと言う。どうにもよくわからない。

「出来れば、一年くらいお願いします」

「それは、ちょっと、じゃないな」

「お母さんに電話したら、家の花壇にもうスペースが無いらしいんです。昨日、野菜の種をたくさん植えちゃったから。だからうちの野菜が収穫されるまで先輩に預かってて欲しいんです」

 気の長い話だ。

「三石ちゃん、衝動買いの癖、何とかしたほうがいいよ」

「そうかもしれませんね」

 恭子は、ふう、と溜息をついて顔を伏せた。そんなに落ち込むことでもないのに、と僕が戸惑ったので、二人の会話が途絶えてしまった。

「野菜、植えたんだ」

 しばらくして僕はポツリと洩らした。

「はい?」

「三石ちゃんの実家」

「ええ、お母さんが」

「何を植えたんだって」

「アスパラガスだと言ってました」

「ああ、空気洗浄樹の」

「そうなんですか」

「前に花屋さんでそう書いてあったよ」

 恭子は無邪気に、知らなかったです知らなかったです、と驚いている。彼女の言葉遣いは所々、敬語ではない。あくまでも、ですます口調なのだ。

「アスパラガスは部屋の空気を綺麗にするんだって」

「あ、でもうちで植えたのは庭の花壇だそうです」

「そうか。なんて酷い仕打ちをしたんだ。アスパラガスの魅力を一つ潰したな」

「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」

「いいかい、三石ちゃん。アスパさんは、」

「アスパさん」

「そう、アスパさん。アスパさんは日々頑張って、部屋の空気を綺麗にしてくれるんだよ。そのために彼は生きているんだ」

「そんな使命感を持った生き方をしている方だとは知りませんでした」

「みんなの部屋の空気を綺麗にしたい、ただそれだけを思って生きているんだ。頑固なくらいにね。だからアスパさんは筋が通っているだろ」

「上手くもないこと言わないで下さい」

「上手くなかったか」

「そういえば、私、アスパさんを食べるとおしっこが臭くなるんです」

「いきなりなんの話だよ」

「先輩はそんなことありませんか」

「ありませんよ」

「私だけかな」

 恭子はまた考え込んだ。恭子はよく物思いに沈む。かと言って暗い人間ではない、演劇部では笑顔を絶やさずみんなを励ましている部内のムードメーカー的役割だ。ただ、僕と一緒にいるときだけは、彼女はよく考え込むのだ。

「そう言えばうちのおじさんが、そんなこと言ってたな」

 と僕は嘘を吐いた。恭子は微塵も疑っていないようだ。

「本当ですか」

「ああ。なんか、そういう体質の人がいるらしいって」

「病気じゃないんですね」

 恭子は安心したようだ。

「多分、アレルギーみたいなものじゃないかな。でも別に、食べたからって体にぶつぶつが出来たり、お腹が痛くなったりするわけじゃないんだろ」

「はい。アスパさん大好きです」

 その呼び方はもういいよ。

「別におしっこの臭いなんて、人にわざわざ嗅がせるものでもないし。気にしなければいいんじゃないか」

「先輩は気にしませんか」

「とても気にする」

 恭子はまた落ち込んだ。

「冗談だよ」

「でも先輩って臭いに敏感だから」

「そうだったかな」

「部室でみんながポテチを食べた後にやって来て、臭いだけで何味だったか当てるじゃないですか」

「だってあいつら、いつもコンソメとかピザとか、濃い味ばっかり食ってるもん」

「部員達の間では先輩の嗅覚はシェパード並との噂もあります」

「自覚ないな」

「ここに来る日にはアスパラガスは食べないようにしてるんです」

 恭子がうちに来るときは大抵はそのまま泊まることが多いのだ。いろいろと僕に対して気を遣ってくれているらしい。

「好きならどんどん食べればいいじゃないか。別に僕は気にしないよ」

「本当ですか」

「本当ですとも。それより、今日の夕飯、アスパラガスが食べたいな」

 恭子は不満そうに、えーっ、と言ったが、すぐに笑顔へと戻る。表情がころころと変わるのも演劇部員ならではの特徴だ。とにかく彼女は、笑顔をすぐに浮かべることができる。本心を隠すのが上手い、ということでもある。

 その日も恭子はうちに泊まった。夕飯はリクエスト通り、アスパラガスを使った料理を恭子が作ってくれた。恭子は美味しそうにアスパラガスを食べていた。リクエストした当人である僕はと言えば、アスパラガスの固い筋が苦手なので、あまり食べなかった。それを見た恭子が、先輩が食べたいって言うから作ったのに、と不満そうに言う。その夜、二人裸で一つの布団にもぐりこんだ時、ドサクサにまぎれて恭子のおしっこが出るところの臭いを嗅ごうとしたけれど、やめて、と顔を引っ叩かれて阻止された。

 翌朝、僕と恭子は二人揃って登校した。二日続けて泊まる準備はしてきていないと言うので、恭子はまっすぐ家に帰った。一人で部屋に戻った僕は、部屋の隅に鎮座するコロンバインを見て思わず、ああ、と声を洩らした。うやむやのうちに預かることになってしまった。

「恭子にはかなわないな」

 僕は誰にと言うわけでもなく呟いた。

 

 

 うやむやのうちにコロンバインは僕の部屋で暮らすことになった。自分のものではない、かといって投げやりにして済ませられる贈り物でもない、大切な恭子からの預かり物だから、枯らすわけにはいかない。けれど僕は、花の育て方を知らなかった。

 三日後、早くもコロンバインは元気を失くしていた。

「日本のオダマキとセイヨウオダマキが同じ育て方でいいのかよくわからないんですけど、ネットで調べてみました」

 恭子はA4サイズの紙を一枚取り出した。ほんの数行だけ、オダマキの育て方、と言うタイトルの文章が書かれている。

「それ、もっと小さい紙にプリントすればよかったんじゃないのか」

「学校のパソコン、A4用紙しかないんですよ」

「なら手帳にメモするだけでいいじゃないか」

 恭子はしばらく黙ってから、姿勢を正して僕を説教するようにコロンバインの育て方を話し始めた。メモは思いつかなかったらしい。

「とにかく、土が乾いてきたら水をやるようにして下さい。あんまりあげすぎちゃ、ダメですよ」

「前にそれで枯らしたことあるんだ」

「草丈は七十センチに達することもあるそうです」

「でかいね」

「これからどんどん成長するんでしょうね」

「勘弁して欲しいな」

「乾燥に弱いそうなので注意して下さい」

「注意しましょう」

「夏は暑さに弱いそうですから、日当たりの良いベランダなどは避けて、風通しが良くて明るい日影で育ててください」

「どこだって?」

「風通しの良い明るい日影です」

「それって矛盾してないか」

「うーん……多分、直射日光が当たらないけど、あんまり暗すぎないところって意味だと思います」

「なかなか気難しいね、コロンバイン」

「先輩の部屋は日当たりが悪いから、窓辺に置いても平気だと思いますよ」

「でもこの部屋、風通しは悪いぞ」

「団扇で扇いであげてください」

 そんなのでいいのか。

「どうやら鉢植えで育てるよりも、花壇で植えるのに向いた花のようですね」

「それは僕にはどうしようもないぞ」

「とりあえず一年間は狭い所で我慢してもらいましょう」

 果たして花が我慢なんてするのだろうか。

「私、先輩には花を愛してくれる人になって欲しいんです」

「唐突に変なこと言うなよ」

「別に変じゃありません。花の名前を一つも知らない男の人って、つまらないですから」

「そういうもんかな」

「例えば、先輩は花の名前をいくつ言えますか。名前だけじゃダメですよ、どんな花なのか思い浮かべられる花はいくつありますか」

「チューリップ」

「はい、一つだけですね」

「待てよ、そんなに急ぐな。えーっと、他にどんな花があるっけ。そうだ、まずサクラだろ、それからバラだろ、あと、そうだな、ヒマワリも分かるぞ。他には、うん、そうだな、ちょっと待ってて、思い出せない」

「たった四つじゃないですか。私、花の名前をほとんど知らない人って、なんだか、言っちゃ悪いですけど、心が貧しいんだと思います」

「何気にひどいね」

「でも、花が咲いているのを見て、ああ花だな、としか思わない人ってつまらないと思いませんか? 別にツバキとサザンカを見分けろとか、そういうところまでは求めません。でも、スイートピーやキンモクセイくらいは分かって欲しいんです」

「いま思い出したけど、アサガオは分かるぞ」

「五つ目ですね」

「あと、キクとタンポポも」

「七つですね。カーネーションやユリはわかりませんか」

「わかる、分かるよ」

 どうして思い出せなかったのか不思議なくらいだった。カーネーションは小学校を卒業するまで毎年、母の日に買っていた花だ。中学校に入ってからは、どうにも恥ずかしくなって、母の日にカーネーションを贈らなくなっていた。

「言われてから分かるって答えるのは、分かってるうちに入らないんですよ。タイサンボクやシャクヤクは知ってますか」

「立てばシャクヤク座ればボタン歩く姿はユリの花、ってやつだろ」

「今言ったのが全部どんな花なのかを知っているかどうか聞いているんです」

 慣用句としては知っているが、それが実際にどんな姿の花なのか、と聞かれると、僕は答えに詰まった。タイサンボク、という花に関しては名前すら知らない。

「それは……いや、知らないけどさ。まったく、女の子にはかなわないな」

「別に男女は関係ありませんよ。アジサイくらい誰だってわかるでしょ。梅雨に咲く花の代表格じゃないですか。そういう、当然の話をしたいんです。花を見て季節を感じて、ああもうこんな季節なんだね、こんなに二人一緒にいたんだね、って、そういう会話をしたいんです。それなのに先輩はチューリップ」

「なんだよ、先輩はチューリップ、って」

「不毛な心にたくさん花を咲かせて欲しいんです」

 変な宗教の勧誘みたいなセリフを言う。

「そういう名目で、実家でアスパラを収穫するまで花を預かっててくれ、という勝手なお願いをごまかそうとしてるわけだな」

「半分はそういう策謀もあります」

 なんだ策謀って。

「でもいま言ったことも本心です。つまり、どっちも本当です」

「花を愛せ、と」

「愛さなくても、興味くらいは持って欲しいんです。同じことに興味を持って話をしたいじゃないですか。ずっと演劇の話ばかりだと飽きます」

 僕も恭子も演劇部員なのだ。もっとも、恭子が役者であるのに対して僕は脚本担当なので、自ずと劇への取り組み方も見方も考え方も違ってくる。この頃、僕は恭子の演技に対して意見することが多くなってきていた。すれ違いではないけれど、どこか噛み合わない部分が出てきていたのは事実だろう。花を愛せと恭子が言うのは、彼女なりの、二人の噛み合わなくなった部分を修復しようという試みなのかもしれなかった。

「まあ、花の名前を覚えるのもいいだろうね」

 そう言うと恭子は無邪気な笑みを浮かべた。

「週末にでも、どこか遊びに行きませんか」

「どこに行きたい?」

「ここから、あまり電車を乗り換えずに行けるところがいいです」

 変な注文だ。

 僕はバイクの免許を持ってはいるが、バイクそのものは持っていない。恭子に至っては免許さえ持っておらず、実家から電車で大学まで通っている。だから二人で出かける時は電車と決まっていた。

「ここから乗り換えずに行ける場所って言うと、京王線沿いか、小田急か、一度乗り換えるけど、横浜線沿いのどこか」

「町田は嫌です」

 なんのこだわりだ。

「よし、高尾山に行こうか」

「渋すぎます」

「なら桜木町にするか」

「若すぎます」

 若いじゃないか。僕より一つ下なのだから。

「じゃあ、また新宿にでも行くか」

「思い出横丁で一杯やりますか」

 若くないな。

「昼間から酒かよ」

「私の地元、知ってますよね」

「そりゃ、行ったことあるからな。小田原だろ」

「小田原の戦国大名、北条氏康がこう言っています。酒は朝に飲め、と」

 恭子は歴史好きなのだ。正確には、戦国時代を舞台にしたアクションゲームが好き、だが。

「仕事前に飲むようにすれば、慎みを持って深酒を避けることができるからです」

「そういう心構えが出来る人なら夜にも深酒しないんじゃないか」

「だから飲むのは夜、なんて固定観念は無視して、思い出横丁で昼から飲みましょう」

 恭子は僕の問いかけを無視した。

「朝に飲むのと違って昼から飲むんなら、それは深酒だろ。さっきの話は何なんだ」

「どうでもいい話です」

 おそらく新しく仕入れたネタを話して聞かせたかっただけなのだろう。

「せっかくの名言をただの無駄話にされたら、あの世で北条氏康が泣いてるぞ」

「私は真田幸村が好きだからどうでもいいです」

 地元の扱いが雑すぎる。

「それか新宿御苑に行きましょう。きっと今頃ならバラが綺麗に咲いてますよ」

「バラ、ねえ」

「先輩なら日本庭園のほうが好みかもしれませんね」

「そうだね。池を眺めながらお茶をのんびり飲みたいな」

「おじいちゃんみたいですね」

 横丁で昼から一杯やりたい女に言われたくない。

「まあ、御苑の近くで昼飯でも食べるつもりで行こうか」

 二人とも、場当たり的にあちこち歩き回るのも嫌いじゃないので、これまでにもかなり曖昧な予定で遊びに行くことがあった。恭子は予定調和な出来事が好きではない。偶然が織り成す奇跡を愛する、子供っぽいところがある。美しい景色も、不思議な出来事も、たまたま出会うからこそ価値がある、そう信じ込んでいるようだ。そんな恭子だから、その場で適当に決めよう、と言う僕の提案に喜んだようだった。

 

 

 それから数ヶ月、僕らは花のある場所を探してあちこち二人で出かけて行った。そしてようやく僕が花の名前をいくつか覚え始めた頃に、コロンバインは花を落とした。そのまま茎と葉とがだんだん萎びてしぼんでいく。水はちゃんとやっているのに。肥料も充分あるはずなのに。葉は茶色に染まり、花はすっかり散ってしまった。

 不安に駆られた僕はある日、一駅隣の花屋へ行って代わりのコロンバインを探してみた。恭子にさえ気付かれなければ、多少、自分の生活費を削ったところで痛くも痒くもない。

 子供の頃から僕はしょっちゅう叱られていた。何をやっても空回りばかりで、気を利かせたつもりの行為は、父親から余計な事をするなと怒鳴られ、邪魔をしないようにと黙っていれば、母から怠け者だと叱られる。

 怠け者は本当だ。部屋はいつも散らかっていて、恭子が月に一度くらい、わざわざ丸一日かけて片付けてくれるのを待っている。勉強に手を付けたこともない。受験で目指したのは、大した対策を取らなくても入れる学校ばかりだった。そして子供の頃から自分で物語を考えて、毎日ノートに書き綴ってばかりいた。子供の頃から大きく変わったことなどない。自分自身が変わらずに、けれど前へと進むことが出来る、そんな都合の良い道ばかりを選び続けてここまできた。怠けた分を取り繕うための言い訳の才ばかり身に付けてきた。

 とりあえず、恭子にバレさえしなければ良い。僕は辻褄を合わせるためなら、寝食を犠牲にするくらい厭わない。子供の頃から物語を作ってきたその経験が、変なところで花を開いた。辻褄合わせの嘘八百を並べ立てる。どんな嘘を使っても、恭子を悲しませたくない。彼女を怒らせたくもない。どんな嘘を並べても、僕は彼女に笑っていて欲しい。恭子に喜んでもらいたい。

 それなのに、コロンバインは見つからない。そもそもコロンバインとは何だ。インターネットで調べてみても、出てくるのはコロンバイン高校の事件ばかりで、花はなかなか見つからない。いつだか恭子がこの花の和名を言っていたのだが、記憶の彼方に埋もれている。

 そうこうしているうちに、ある日、恭子がやって来た。それまで僕は何かと理由を付けて、出かけた先で恭子と待ち合わせるようにして、彼女が枯れたコロンバインを目にしないよう手を打ってきた。

 それが、また、午後の講義がなくなったから、と言って突然彼女が訪れたのだ。もう言い訳がきかない。

「悪かった」

 僕が恭子に向かって頭を下げると、恭子はきょとんとしたように目を丸くして、どうしたんですか、と言った。

「あの花、枯らしちゃったんだ。コロンバインを」

 そしてコロンバインの鉢を見せた。もうすっかり茎や葉が落ちている。すると恭子がけらけら笑った。

「先輩、コロンバインの育て方って調べたことありますか」

「インターネットで調べてみたけど、銃乱射事件のことばかりだったんだ」

「花、コロンバイン、と調べてみればいいんですよ」

 ああ、なるほど。

「先輩って意外と機械オンチですね」

「悪かった」

「そんなにしょげないで下さいよ。しょげないでよベイベー、です」

 恭子は『はじめてのおつかい』の歌を口ずさんだ。

「オダマキは根だけになって冬を越すんです」

「え?」

「だから、コロンバインって、冬には地上の部分が枯れちゃうんですよ」

 そして恭子はまた歌う。しょげないでよベイベー。

「先輩、まだまだ花の素人ですね」

 恭子は僕の頭を撫でた。子ども扱いされたのに、不思議と腹は立たなかった。

「それでもいくつか花の名前は覚えたんですね」

「まあね」

「えらいです、褒めてあげます」

「そりゃ、ありがとう」

「いい子いい子」

「ああ」

「しょげな、」

「歌はもういいよ」

 恭子は仏頂面を浮かべた。けれど、またすぐ微笑んだ。ころころと変化する彼女の表情は、見ていて飽きない。怒った顔、いじけた顔、仏頂面、何より美しいのは彼女の笑顔だ。失笑、冷笑、大爆笑、苦笑に微笑にキザ笑い。彼女のどんな笑い方にも僕は思わず見惚れてしまう。

「もっと笑ってくれよ」

「何ですか、急に」

「見ていたいんだ、恭子の笑顔」

 恭子は笑った。僕の頼みに答えて、というよりは、ただおかしがって笑ったようだ。そして、その自然な表情こそが僕の求めていたものだった。

「そうそう、その顔」

「今日の先輩、ちょっとおかしいですよ」

「ああ」

 僕がおかしいのは、枯れたコロンバインにうろたえて、恭子が僕の元から離れていってしまわないかと不安に思っていた反動だろう。てっきり恭子が悲しみ、怒り、僕に愛想を尽かすものと思い込んでいたのが、予想に反して彼女は笑い、喜んでいる。ただそれだけで僕の心は浮ついていた。

「実は、私も先輩に謝らなくちゃいけないことがあるんです」

「なんだい」

「実家のことなんです」

 恭子はやけに神妙な顔つきをしている。僕はまた不安になった。もしや実家で何かトラブルが起きたのだろうか。それで恭子は大学を辞めざるを得なくなって、別れを告げに来たのではないか。いや、と自分の考えを振り払う。きっと恭子は、実家で何かが起こっても僕のところへ来てくれるだろう、と都合の良いことを願う。

「庭で育ててるアスパさんのことなんですけどね、」

「アスパさん」

「ええ、アスパさん。そのアスパさん、種から育ててたらしいんです」

「それがどうしたんだ」

 どうやら実家で何かトラブルが起きたわけではないらしい。そうでなければ、アスパラガスの話をするとは思えない。

「アスパラガスを収穫するまで、僕が預かってるっていう話だったよな。あ、ひょっとしてアスパさん枯れたのか。ならさっさとこの花、持って帰って、」

「いえ、違うんです。逆なんです」

「逆?」

「実はアスパラガスって、収穫できるくらいに育つまで、丸々三年掛かるんです」

 なんだって。

「だから先輩に、コロンバインをあと二年間くらい預かってて欲しいんです」

 そう言って彼女は僕の手を握ると、また、笑う。

「大丈夫ですよね」

「え?」

「二年先まで私達、一緒にいますもんね」

 ああ、そうだな、と僕は頷いた。

 きっと僕らは何年先までもずっと一緒にいられるだろう。そう無邪気に信じられる。僕らのような二人など、世の中のあちらこちらに転がっているような、大して珍しくもない、ありふれた関係のはずなのに。それがどうして何年先までも続いていると信じられるのか。僕には分からない。何の根拠もなく、理由もなく、ただ僕らは無邪気に信じ込んでいた。

 きっと僕らはこれからも、変わらずにこうやって、お互いに思いあって、気遣いあって。

「何年だって預かるよ」

 答えて、僕はコロンバインの鉢を見た。

 来年の五月頃には、また鮮やかな花を咲かすだろう。

 

 (了)


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