冬の休日

2011年6月26日



  

 時計の電池が切れている。買い置きはあっただろうか、無ければどこで買ってこよう。コンビニは高いからだめだ。大学の購買所なら安いから、久しぶりに行ってみようか。そんな事を布団にもぐり込んだまま考える。いつも考えるだけ考えて計画を実行に移した事はほとんど無い。それが自分の一番の欠点であることは充分理解していた。

 六畳間はひどく散らかっている。これも片付けようとは考えるのだが、やはり考えるだけで未だに手をつけていない事の一つだった。そして散らかした物それぞれにも計画倒れに終わった経緯がある。プランだけの一人旅、プロットだけの劇の脚本、オープニングのイベントだけ見てスタート地点からまるで動いていないゲームのセーブデータ、テレビはあるが設定が面倒になって放置したので、購入して一ヶ月経った今でも社会の情勢や事件を六畳間まで伝えるのは、上京の時に実家から持ってきたラジオだけだ。

 時間は分からないが、部屋の中は日差しが入り込んでいて暖かくなっている。昼に近いか、もしくは既に正午を過ぎているのだろう。昨夜はずっと寝付けずにいて、明け方近くまで起きていた。眠ろうと思って安酒をガブ飲みしたのが今になって悔やまれる。起き上がろうとすると、目が回ったようにふらふらした。頭から布団をかぶって丸く横になり、ぎゅっと目をつぶった。子供の頃から頭痛の時はこの体勢で耐える事にしている。時候の変わり目には必ずと言って良いほど頭痛と気怠さに悩まされてきた。

 しばらくすると頭痛は治まって、気怠さだけが残った。吐き気は無いが、億劫で、何もする気が起きない。そのくせやたらと神経が過敏になり、普段は気にも留めない布団の硬さや枕の高さ、アパートの前を通る車の音が苛立ちを募らせる。何度も寝返りを打ちながら、今日は学校へ行こうかどうか考えた。午後から始まる部活にだけでも顔を出しておいたほうが良いかもしれない。演劇部は人数が少ないから一人でも欠けると練習が成り立たなくなるというのに、もう一週間近く部活どころか学校にさえ行っていない。もともと休みがちなので、出番の少ない脇役をあてがってもらったのだが、そろそろ部員達の我慢も限界に近付いてきているだろう。六畳一間に全員が押し掛けて来るかもしれない。もっとも部員達は別に怖くはない。うるさく言うなら部活を辞めるぞと脅しをかければ、郡を抜いた創作脚本の作者を失う事を恐れて部員達は掌を返したように慇懃になる。これまで長い間無名だった地方大学の演劇部を地元新聞の取材を受けるほどに押し上げたのは、この創作脚本の秀逸さに他ならなかった。だからまだ2年生でありながら、ある意味では部長よりも立場が高い。物語を作るセンスだけが、天が自分に与えた才能だと思っていた。そして、それを鼻にかけているから部員達が内心で自分の事を嫌っているのも知っていた。怖いのは演劇部員のうちのたった一人、たった一人に愛想を尽かされることだけだ。

 布団の上で大の字になって、天井からぶら下がる丸い蛍光灯をじっと見つめた。そろそろ汚れてきたようだから、いつか電器屋で新品を買ってこよう。視線を部屋にめぐらせる。窓辺の花は最近特に元気がない。八月の誕生日に部活の後輩の三石恭子からプレゼントされた花を3日で枯らしてしまったから、気付かれないように、同じ種類の花を近所の生花店で買って来たものだ。恭子は花が入れ替わった事に未だ気付いていない。今度こそは枯らさないようにと育てているのだが、毎日反応のない花の世話をするのは自分の性分と合っていないようだと最近になって気付き始めた。

 ようやく布団から抜け出した。台所でコップに水を入れて、窓辺の花にそっと浴びせてやる。最初の花は水のやり過ぎで根を腐らせて枯れてしまったので、あまりやり過ぎないように注意した。

 それから遅過ぎる朝食の支度をするために冷蔵庫を探ったが、中には缶ビールと卵しか入っていなかった。野菜室のキャベツはしなしなになっていた。チルド室にはベーコンが一枚だけ残っているが、消費期限が大幅に過ぎている。仕方ないのでレトルトパックのご飯を電子レンジで温めて、生卵と醤油をかけて食べた。それだけでも案外に満足できる朝食になる。牛乳パックはなぜか空っぽなのに冷蔵庫に入れてあった。それをどけると、無くしたと思っていた眼鏡が冷たくなっていた。どうしてこんな所にあるのか分からない。頭が痛いのはずっと眼鏡をしていなくて目に負担がかかっていたからかもしれない。さっきのコップになみなみと注いだウーロン茶を飲み乾すと、冷えた液体が一直線に胃まで落ちて腹に溜まっていた気怠さを押し流した。

 

 

 インタホンが鳴った。どうせ宗教勧誘かNHKの集金だろうから無視して布団の上に座り込んで、もう何度も読み返したマンガを適当にぱらぱらとめくっていると、玄関ドアの鍵が開けられる音が聞こえてきて、誰かが勝手に入ってきた。

「あれ、先輩いたんですか?」

 三石恭子が驚いたように銀縁眼鏡の奥で目を丸くしていた。一年中変わらないおかっぱ頭に、出会ったときよりずいぶん大人っぽくなった顔、それでもまだ子供に見えるのは背が頭一つ分低いからだろうか。去年買ってやった白いコートを着ているのが愛らしい。

「勝手に入って来るなよ、不法侵入だぞ」

「別にいいじゃないですか。それより、何してるんですか。もう一週間も部活サボってるじゃないですか。みんな怒ってるんですよ、脚本家が来ないと困るって。先輩は、脚本兼演出兼端役なんですから」

 恭子は一方的にまくし立てると、六畳間を見渡した。

「うわ。このまえ片付けたのに、もう散らかってるじゃないですか。だらしないですよ」

 まるで母親のように口うるさく言いながら恭子は、ゴミをどけて布団の横に自分が座れるだけのスペースを作ってトスンと腰を下ろした。僕と向き合うと、眉を八の字に曲げて怒った顔をする。演劇部期待の新星だけあって、表情を作り上げるのがうまい。実際以上に怒っているように見える顔だ。

「まさか、ずっと寝てたんですか」

「いや、一時間くらい前に目は覚めてたよ」

「どっちにしろ寝坊ですね。朝に何度かメールしたんですけど、見てないでしょう」

「ケータイねぇ…多分、部屋のどこかにあるんだろうけど」

 恭子はため息を吐いた。

「なあ三石ちゃん、それより、時計持ってないか。部屋の時計が止まっちゃっててさ」

「午後2時11分です」

「あちゃあ」

「何があちゃあなんですか。それより、今から行けば部活には間に合うんだから、さっさと着替えて行きましょう」

「部活のためだけに行くっていうのもねぇ。あの坂が辛いんだ。せめて部室棟だけでも山の下に建ってるか、平らな山だったら行く気になるんだけど」

「平らな山って、それは山じゃないでしょう」

「それもそうだ」

 くだらないやり取りに疲れた恭子は、自分の持ってきた鞄からクリアファイルをいくつか取り出してそのうち一つを床に置いた。

「はい、先輩の脚本」

「何だよ。自分の分は持ってるぞ」

「そうじゃなくて、修正して欲しい箇所があるんですよ」

「修正か。どこを?」

 わざとらしく、めんどくせぇなとボヤいて舌打ちをしてみせたが、恭子はそれを無視した。

「三箇所。実際に演技していたらどうしても難しい部分があったんです。暗転してから着替えて出てくるまでの時間が短すぎたり」

「気合い入れて着替えろって伝えとけ」

「先輩もさっさと気合い入れて着替えて欲しいですね」

「やだよ、女子の前でなんて」

「何で今更恥ずかしがってるんですか」

 恭子がけらけら笑った。恥ずかしいわけじゃない、と言い返そうとしたが、それより早く恭子のほうが口を開いた。

「前のシーンで最後まで残る人が、暗転後にいちばん最初に舞台に出るでしょう。違う服装で。これだと暗転が長すぎるんじゃないかって部長が言ってました」

「確かに長いかもしれないな」

「どうしましょう」

「別にどうでもいいよ、勝手に直してくれればいいのに。わざわざ家に持ってきてまで僕にやらせること無いだろう」

「でも北村さんが」

「あいつが何か言ったのか」

「先輩はどう説得しても部屋から出ないだろうから無理やり押しかけて、少しは部活に参加させろって。北村さんの言ってた通りの反応だったから、ちょっとびっくりです」

「まあ、あいつとはお互いの性格熟知してるからな。三石ちゃん、ボールペン貸して」

 恭子から受け取ったボールペンで脚本に追加のシナリオを足してゆく。それを見て恭子が口を尖らせた。

「今から台詞足すんですか?」

「台詞は少しだけだよ。脇役を先に登場させておいて、時間を稼がせるんだ。そうすれば脇役にも個性が出るし」

「脇役ね、誰ですか」

「北村にしておこう」

「先輩の出番は増やさないんですね」

「むしろ減らしたいくらいだね」

 恭子はただ呆れ顔を見せただけだった。

 

 

 脚本の修正が終わってからも恭子は帰らずに、修正した部分をすばやくメールに打ち込むと、部長に向けて送信した。そして、自分の鞄からルーズリーフの束をいくつか取り出して床の上に並べた。どうやらシナリオのようだ。

「何だい、それ」

「私が書いたシナリオです。先輩に読んでもらいたいんです」

「えーっ、これ全部読むのか? 二十冊くらいあるぞ」

「ダメならいくつかでもいいんです。えーっと、これはどうですか。ラブストーリーなんです」

「どれ。…『いま、会いにゆけたら』? パクリじゃないか」

「やっぱりダメですかね。じゃあ、こっちは?」

 恭子が突き出したシナリオのタイトルは『もっと、行きたい』だった。

「明らかなパクリだな」

 何も言わずに恭子は『愛空』というのを取り出した。恭子はケータイ小説の愛読者なのだ。

「パクリじゃないのだけ読んでやるよ」

「先輩、タイトルで決めるからなあ…。じゃあ、これ。あらすじを話しますね。沖縄出身の歌手を目指す女の子と、同じ名前の普通の女の子が上京する飛行機で隣の席に座るんです。そして東京で二人一緒に暮らすことに……」

「タイトル見せろ」

 恭子の手からシナリオを奪い取る。タイトルは『NAHA』だった。

「なはははは」

 シャレのつもりか、恭子が変な笑い方をした。

「好きなんです、あのマンガ」

「僕は主演の歌手のファンだから映画しか観てないけど、あらすじだけで分かったぞ」

「やっぱりダメですか。残念だなあ。あ、じゃあこっちはどうですか? あらすじを話しますね。九州出身の歌手を目指す女の子と、同じ名前の女の子が上京する電車で隣の」

「だから見せてみろって」

 タイトルは『HANA』だった。

「…………いいか、既成の作品にインスピレーションを受けるのはいいんだ。むしろ当然だと思う。全くのゼロからシナリオを書いて、しかも面白い話にするなんていうのはよっぽど才能がないと出来ないんだ」

「先輩みたいにですか?」

「僕だって出来ないよ。とにかく大事なのは、インスピレーションを自分の物にする事だ。たとえば三石ちゃんの…えっと、何だっけ。NAHAか、とんでもないパクリタイトルのこれだって、手を加えれば少しはオリジナルっぽい話に出来るだろう」

「どんなふうにですか」

「たとえば主役の名前をユウとかヒロミ」にするとか」

「ユウ?」

「ユウとかヒロミなら、男の名前にも女の名前にもなるだろ。ありきたりだけどさ、そうすれば上京する時に出会うのが男と女にできるから、全体像も変わってくるだろう」

 感心したように恭子は「なるほど」と言った。大したアイデアでもない。

「それか、女の子同士の恋愛にしちゃうとか」

「えーっ、それはちょっと、イメージ崩れるから嫌です」

「まあ、今のは極端だけど、そうやって自分なりに組み立てていかなくちゃ。丸パクリじゃあダメだよ。パロディ物にするならともかく」

「でも、一から作り出すのって大変なんですよね。二次創作には慣れてるんですけど」

「そりゃ簡単じゃないけどさ。まあ、感銘を受けたセリフだとか演出を自分なりに真似するってのは悪くないと思うけどね。でも、三石ちゃんのやってることはただのパクリ」

「先輩はいつもどうやって作ってるんですか」

「少なくとも他のお話から丸パクリだけはしないな。そうだな、最初にキャラクターを頑張って設定してみなよ。三石ちゃんの友達でもモデルにすればいいだろ」

NAHAも友達イメージしてるんですけどね」

「それはちょっと置いといて。あとは、そうだな。日常の中の非日常を描くのか、非日常の中の日常を描くのかを考えてみるってのはどうだ」

「はあ、日常が非日常で非常ですか」

 どうも理解していないらしい。

「例えば、この部屋の窓の外に鯨がいるとする」

「唐突ですね」

「そう感じるのが、日常の中の非日常。どうしてこんなことが起きたんだって、登場人物も観客もびっくりするような事件が起こるのがね。脚本も書きやすいんじゃないか。あくまでベースは自分の感覚でいいんだから。僕がいつも書いているのは、非日常の中の日常」

「それはどういう世界なんですか」

「観客から見たら異常な世界なんだけど、本人たちにとっては通常の世界なんだな」

「つまり、おかしな人たちを主人公にしてるわけですね」

「いや、おかしな世界の普通の人が主役なんだよ」

 恭子は、よくわからないと言った表情でしばらく首を傾げていたが、やがてはっと顔を上げていきなり身を乗り出して顔を寄せてきた。

「先輩、熱でもあるんですか」

「何だよ、急に」

「だって、シナリオの事、すごく熱く語ってくれたじゃないですか。いつもと顔付きも全然違いましたよ」

「自覚ないな」

「ほら、今は肩の力も目力も抜けちゃって、脱力系のニートみたいじゃないですか」

「何気にひどいね」

「先輩って老成してるなって前から思ってたんですよね。ボーっと外から皆を眺めて皮肉を言ったりして、傍観者を決め込んでるでしょう。学祭の時も、私が誘わなきゃずっとスイーツサークルの喫茶店でまったりお茶飲んでたでしょ」

「あそこのケーキ美味しいんだよ」

「確かに美味しかったです。特にショートケーキのホイップクリームが柔らかくて、生地もふんわりと焼きあがってました。それにアップルパイも、アンナミラーズのパイみたいに甘くて、ついつい手が出ちゃうくらいの美味しさでした。カリッと表面が焼いてあるのに、中はしっとりしている食感が模擬店とは思えないほどです。けど、そんな事はどうでもいいんです」

「どうでもいい割には熱く語ってくれたね」

「問題は、先輩が全然若くないって事なんです」

「そりゃあ、三石ちゃんに比べたらおじんだけど」

「私と比べなくてもおじんなんですよ。それに、冷めてるんです。動きがないんです、活発さが皆無なんです」

「別にいいんじゃないか? 最近じゃあ小学生だって冷めた子はいるぞ。特に女の子なんかマセてるね。メイクしてクラブに勤めてたり」

「それはマセすぎです」

「発育もいいし」

「何の話ですか? ともかく、今日だって昼まで寝てたんでしょう。勿体無いですよ、時間の過ごし方が。人生を損してます」

「いつから人生ってのは損得勘定で計るものになったのかな」

「タイム・イズ・マネーって言うじゃないですか。さあ、まだ間に合います。一緒に部活に行きましょう」

「なんだ、結局そこに戻るのか」

「いつまでもこんな所で腐ってないで、ほら、立ってくださいよ」

 無理やり腕を掴んで立たせようとする恭子の手を振り払って、頭から布団をかぶって丸くなった。

「いやだね。今日は二日酔いで頭痛がひどいんだ」

 布団の周りに転がるビールの空き缶の量を見て恭子が「弱すぎですよ」と言った。

「風邪かもしれないな。とにかく頭痛がするんだ。そうだ、だから昼間まで休んでたんだよ。病欠だって伝えておいてくれ」

「病欠ね、じゃあ熱を測りましょう」

「いいよ、別に」

「仮病ですか」

「違うよ」

「仮病ですね」

「違うって」

「仮病ですね」

「仮病だよ」

「仮病ですか」

「そうだって言ってるだろ。あ、でもちょっと本当に熱出てきたかもしれない」

「じゃあ測らせて下さい」

「体温計無いから」

 口を尖らせて恭子は手を伸ばして額に触れてきた。手が柔らかくて、温かい。

「どうせなら、おでこくっつけてくれよ」

「ヤダ、変な事されそうですもん」

「するよ」

 恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、何故か恭子は顔を近付けて来た。

「あ、来るんだ」

 眼鏡を外してやると、くるりと大きくて可愛らしい目が顕になった。髪を撫でながら引き寄せると、恭子は小さく呻いた。けれど手は握り返してきた。どうやら部活に行けとは、もう言われなくてすみそうだ。

 

 

 疲れがどっと出た。恭子が言っていたように若くないのかなと思う。もっとも恭子は精神的な老成を言ったのに比べて、自分は体力的な事を言っているのだが。

 シャワーを浴びた恭子が戻って来て、布団にもぐり込んで来た。

「赤ちゃんみたいな匂いがする」

「そうですか? ベビーパウダーつけたからかもしれませんね。嫌だったら普通の香水にしますけど」

「別にいいよ。嫌いな匂いじゃないから。でも、何でベビーパウダーなんてつけるのさ」

「肌に優しいから。ちょっと高いですけど。先輩だって私の肌がガサガサだったらいやでしょ」

 ふうん、と気の無い返事をして目を閉じる。

「疲れたんですか?」

「ああ」

「おじさんみたい」

「老成してるんだよ」

 小さく笑ってから、恭子は身を寄せてきた。

「先輩、そろそろ一緒に住みませんか」

「一緒にって、ここで?」

「だって私、家まで2時間かかるんですよ。夕方にここに寄って、家に帰るのが夜の9時くらいになったりするんですから。このままじゃ危ないし、疲れるし。ここに住めたら学校まで歩いて行けるじゃないですか。それに、もっと一緒にいたいし」

「何気に最後の一言って恥ずかしくないか?」

「何でですか?」

「いや、まあ別に何でもないよ。それより、月7万のバイト代で2人食っていくのは無理だろ」

「私がバイトするならいいってことですか」

「そんな単純な話じゃなくて…。大体、三石ちゃんの親が許さないだろ」

「いや、うちの親はいいんですよ。自宅通学よりも、近い友達の家に下宿した方がいいって言ってるんです」

「男でも?」

「だって、デキ婚してくれるといいなって言うんですよ? 夕食の時に」

「デキ婚…」

「先輩、もしも子供が出来たら、どうします?」

「どうするって?」

「結婚してくれますか」

「気が早いなあ。まだ大学生なんだから、結婚なんて先の話だろ」

「だから、もしもですよ。もしも、できたら…?」

「できたら、ねえ」

 何と答えていいのかわからず、答えをはぐらかして、恭子に背を向けて目を閉じた。これ以上、面倒な話はよしてくれと背中で語ったつもりだ。

「同棲のこと、ちゃんと考えておいて下さいね」

「ああ」

「前向きに、考えて下さいね」

「分かったよ」

 べたつく疲労感と心地好い温もりに包まれて、やがて眠りに落ちた。

 

 

 惰眠を貪るとはこういう事を言うのだろう。寝たい時に眠り、起きたい時に起き、食べたい時に食べる。時間に追われることも無ければ夢を追うこともしない。薄目で見た窓の向こうに虹が浮かんでいても何の感慨も抱けない。ジグソーパズルのピースを集めることすらしない。一週間、そうやって過ごしてきた。そうして恭子がやって来て、少しだけ外の空気を運んでくれた。ついでに同棲とか結婚とかいう厄介なものも運んで来た。

 この一週間を思い返すと、驚くほど短い。思い出が薄っぺらで、一日一日が短くて、そのくせ昨晩の夕食さえ覚えていない。何かをきっかけに、この無駄な毎日から抜け出したかった。

 恭子は自分よりも一つ進んだ世界にいる。それは分かりきった事だった。先を見て、将来を見て、計画して、時間に追われてせかせかと忙しい毎日を走っていく。恭子だけではなく、世間一般の人はそうやって過ごしているのだろうと思っていた。そんな生き方を嫌って、自分で時間を止めていた。追手を殺した。

 ところがそれが違ったのだ。恭子は夢を追っていて、時間を追って生きていた。時計に追われて走っているわけではなくて、明日を追いかけて走っている。自分が殺したのは追手ではなかった。追いかけて、掴もうとしていた明日だった。一度殺してしまった明日は生き返らない。何か別の明日が欲しかった。夢なんて壮大なものではない。明日、ただ明日が欲しい。

 温もりの中で不思議な怖ろしい夢を見た。自分は空の高いところに浮かんでいた。遥か彼方に、これまでの人生で一度も見たことのないような歪んだ地平線が見える。その地平線に夕日が半分くらい沈みかけていて、頭上には夕焼けと夜が混じり合う深い藍色の空が広がっている。そこに星はひとつもない。自分は、両手を広げて背後から吹く風を全身に受けている。そして雲が流れるように風に運ばれて夕日に吸い込まれていくのを、ただじっと見ていることしか出来ない。視線を足元に向けると、大地までもが夕日に向かって飛び去っていく。それを見て初めて気が付いた。雲が吸い込まれているのではない、大地が飛び去っているのではない、太陽から、光から、自分自身の体だけが世界に反して遠ざかっているのだと。先の見えない暗いほうへ。夜へ。暗闇へ。孤独へ。

「恭子」

 

 

 自分の声で目を覚ました。布団はひんやりと冷たくなっていて、恭子の姿は無い。どうやらもう帰ったようだ。窓の外は暗くなっていたが、部屋は電灯に照らされていた。

 壁にかけた時計の針が音を立てながら時を刻む。針は午後8時を指していた。

 起き上がると、布団の横に置かれたお盆が目に付いた。風邪薬とコップ一杯の水、置手紙には線の細い恭子の字で、食後に2つを噛まずに飲んで下さいと、説明書を見れば分かることをわざわざ書き添えてあって、追伸にできたらシナリオを読んでおいて下さいとも書いてあった。そして近所の電気屋のレシートが置いてある。蛍光灯が一セットと単三電池が一パック。時計の電池だ。

 もう頭痛も気怠さもすっかり失せていた。恭子には悪いが、コップの水はそのまま飲んで、風邪薬は戸棚にしまった。

 その後、一時間くらいかけて散らかった部屋を片付けた。本は本棚に、書きっぱなしのシナリオはファイルに入れて引き出しに、一人旅のプランはゴミ箱に捨てて、代わりに二人旅のプランを立てよう。全てを元のあるべき場所に戻したが、時間だけは巻き戻せなかった。脱ぎっぱなしで丸めてあったズボンのポケットからバッテリーの切れたケータイが見つかった。充電器につないで電源を入れると、恭子や北村からのメールが溜まっていた。画面の端に表示された日付は12月20日。クリスマスが近い。せっかく付き合っているのにクリスマスの夜を恭子一人で過ごさせるのは申し訳ない気がした。久しぶりに自分から誘ってみようか。クリスマスプレゼントも用意して、あと、その時までには恭子が置いていったシナリオの一つ一つに言葉を送れるように、ちゃんと読んでおこう。

 しばらくの間、迷いに迷って文面を考えた。自分からメールを送った事はほとんど無いからどう書き出せばいいか分からない。結局、24日の夕方に校門の前で会おうと短く簡単な文章を送った。せめて、どこに行くかはこっちで考えておくと一言付け加えればよかったかと送信完了してから後悔したが、もう遅い。

 返信はすぐにきた。

 

 (了)


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