ハカセと私

2011年6月25日



 

 アパートの303号室に住む初老の男性は変わり者の発明おじさんとして近所で有名な人だった。私たち一家は304号室に住んでいたので隣人としても、何より父の学生時代からの友人としてもだいぶ深い付き合いがあった。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の登場人物であるエメット・ブラウン博士のようなボサボサの頭にギョロッとした目の、やけに元気な声を出す変な人で、私と弟はその人に『ハカセ』とあだ名を付けて呼んでいた。
 年がら年中部屋にこもって変てこな発明を続けているハカセは、年頃になった私にとっては少し近寄りがたい存在だった。私と違って弟はと言えば、面白いハカセの発明品に心を奪われて毎日のように遊びに行くほど仲良くしていた。男の子はメカニックに憧れるものらしい。
   決して古いアパートではなかったが、防音設備が整っていないから夜中に突然変な低音が響いてくることがしばしばあった。そういう時は大抵がハカセの家から聞こえてくるもので、ベランダから身を乗り出して窓越しに隣の部屋を覗き込むと、カーテン越しに青白い輝きが瞬いていたりして不気味に思ったこともあった。
 けれどハカセとの思い出は、不気味な事ばかりではなかった。例えば、光の音楽というのを見せてくれたことは楽しい思い出の一つになっている。弟と一緒に留守番していた日曜日の昼頃に突然ハカセがやって来て、面白いものを見せてあげると言った。特に怪しむことも無くハカセの部屋に行くと、リビングにドデンと、大きな器械が腰を据えていた。それを見た時に私と弟は、揃って一歩引いた。
 一体何の器械なのか尋ねると、ハカセはふふんと鼻を鳴らして、
「よくぞ聞いてくれた」
 と言って自慢げな様子で語りだした。聞くところによるとそれは音楽に合わせて色とりどりの光が発せられる、室内用のプラネタリウムのようなものだという。単に光るだけでなく、ただCDを入れるだけで音楽の曲調にあわせて色調も変わるというのが博士なりの新発明らしい。早速見せてくれるというので、私と弟は並んでその器械の前に座った。
 まず初めに、歯医者などの待合室で流れているような名前の知らないクラシック音楽が流れてきた。それに合わせてその機械が淡い青色や、鮮やかな黄色、透明なオレンジ、澄んだ空色、深い緑色、濃いブラウン色と言った具合に次々にその色合いを変えながら美しく部屋を照らし出した。走馬灯に似ている、と私は思った。ただ残念なのは、その部屋が散らかっていて変てこな発明器具で埋め尽くされていたことと、クラシック音楽に合わせてハカセが腰を振る変なダンスをしていたことで美しさがかき消されてしまったことだった。ただ、それさえなければあの光の音楽と言うのは部屋全体を心地よい空間へと変えてくれる素晴らしい発明だったのではないかと思えた。
 パソコンの調子が悪くなったときはハカセに頼めばちゃんと直してくれた。最新の携帯ゲーム機だって調子が悪くなったら修理してくれるのだから単なる発明おじさんと呼ぶわけにはいかない、科学技術者と呼ぶにふさわしい。一体、前半生にどんな仕事をしていたのかわからないが、電化製品の修理はハカセに頼んでもらっていたので、そういう部分からもハカセと我が家との関係は深かった。ハカセはずいぶんまえに奥さんを亡くして以来一人暮らしを続けていたので、時々は食事を一緒にすることもあったし、料理を届けてあげることもあった。


 高校の体育祭があった日の帰り、いつも通り自宅へ続くアパートの廊下を歩いていると、突然、ハカセが家から飛び出してきた。私の姿を見るとハカセは、何と言う幸運だ、と叫んだ。何と言う不運だろう、と私は心の中でため息をついた。
 そのまま半ば強引にハカセの部屋に引っ張り込まれた。いまさら乱暴されるんじゃないかと不安になることもないが、変な発明の実験体にされるんじゃないかという別の恐怖があった。以前、ハカセの発明した全身マッサージ機の餌食になって苦しい思いをしたことがある。どんな目にあったかなんて思い出したくも無いのでここでは語らないことにする。私は、嫌なことは忘れる主義なのだ。
 部屋の中に引っ張り込まれた私は、ダイニングキッチンに通された。新発明を起動させる準備が終わるまで、コーヒーでも飲んでなさいと言われたので勝手に何か飲ませてもらうことにした。何しろ体育祭の日だから、体が疲れている。喉も渇いている。食器棚からコーヒーカップを取り出すと、なんだか底のほうにコーヒー色の汚れがこびりついていたので、流し場で洗わせてもらった。けれど幾ら磨いてもコーヒー色が落ちない。多分これは絵柄なんだと無理な事を自分に言い聞かせる。冷蔵庫の中には烏龍茶とコーヒーがあったけれど、なんだかコーヒーは澱んでいたので烏龍茶のペットボトルを手に取った。コーヒーカップに注いでから、失敗した、と後悔した。コーヒー色の汚れと澄んだ烏龍茶とが混ぜ合わさって、ミルクティーみたいな変な色に変色してしまったのだ。もともと澱んだコーヒーならこのあからさまな変色にも気付かないで美味しく飲めたかもしれない。濁った緑茶をちょっとだけ口に含んで、あとは流しに棄てた。
 用意が出来たというのでハカセの部屋に入ると、それは大きな大きな器械がどんと座っていた。縦は2メートル、横には1メートルはあろうかという大きなステンレス製の塊で、ちょうど真ん中に、電子レンジの扉のようなものがある。そしてその周りには何を表しているのかも判らない計器やボタンがいくつもあり、その大きな器械の横から伸びたコードがノート型パソコンに連結している。一体なんの器械なのか聞くとハカセは得意げにふふんと鼻を鳴らして、
「よくぞ聞いてくれた」
 と自慢げな様子で語りだした。
「これは時空間物質転送を行う装置…つまり、タイムマシンなのだよ」
 へえ、と私は気の無い返事をした。ハカセはそのリアクションが不満だったらしく、信じていないのかね、と口を尖らせて聞いてきた。どうでもいいがもうすぐ年齢が六十に届くという男がそういう仕草をしないでほしい。
 信じるも何もタイムマシンなんてSF小説の中の出来事じゃないですか、と言おうとしたが、やめた。それを言うとハカセは小一時間ほどSF小説談義と、そのSFの中に登場した思想がどれほど現実の科学に影響を与えて文明の進化と発展に貢献してきたかという持論を披露するのを知っていたからである。ウェルズに始まり、ブラッドベリやクラークやら、私が読んだことのない作家の名前ばかり挙げる。筒井康孝の『時をかける少女』だけは映画で見た事があるのだが、ハカセの話にはついていけない。
 ともかくハカセが言うには、私にタイムマシンの試運転を見届けて欲しい、とのことだった。それだけなら構わないと思った承諾したのだが、これがけっこう、辛かった。まずハカセはタイムマシンの構造について語りだした。語りだしたら止められないからじっと黙って聞いている。けれど程よく相槌も打たなくてはいけないのが心苦しい。どうして十七の小娘が六十の男にこんなにも気を遣わなきゃいけないのか。しかもハカセは、ベクトルがどうとか、関数がどうとか、シュレーディンガーの猫がどうとか、量子デコーヒレンスがとうとか、光の郡速度とか、文系の私には到底理解の出来ないことばかり言うのだから、目が回るような気がしてとても話の内容は頭に入らない。
 だから、とりあえずハカセがそういうものを作ったんだということで納得しておいた。もっとも、未だに理解は出来ていない。


 ハカセの説明で判ったことは、とりあえずこのステンレス製の巨大化した電子レンジのような物体はタイムマシンであること、そしてこのタイムマシンでは生物は時間を超えられず物体しか時間移動できないということだ。なるほどそれでターミネーターはロボットなのかと勝手な解釈をしつつ、タイムマシンの目の前に腰を下ろす。
 とうとうタイムマシンの試運転が始まった。ハカセは私に、十日後の自分へ手紙を書くようにと言った。馬鹿らしいなと思いつつハカセが用意した便箋に、「十日後の私へ 十日前の私です、お元気ですか」と実に間抜けな手紙を書いた。ハカセがそれだけじゃ足りないと言うので、今日の体育祭のことを書いた。「今日の体育祭では青組みが勝ちました」そして三日後に模試が控えていることを思い出した。「三日後に模試があるけれど、どうせどうにかなっていることでしょう」と適当に思いついたことを書いて、封筒に入れた。白い封筒に赤いシールで封をして、十日後の自分へ、と書いた。馬鹿みたい。
 ハカセは満足げにこの手紙を受け取ると、電子レンジみたいな扉を開けて、これまた旧式電子レンジにそっくりの受け皿の上へ慎重に手紙を置いた。そして手元のパソコンを操作しながら私に向かって、中の手紙がどうなるのか観測してくれたまえと言うので、私は中腰になってタイムマシンの中の手紙をじっと見た。
「十日後の同時刻、場所は君の部屋にしよう」
 突然こんな手紙を送られても困るのだが、口を挟むのも気が引けたので黙っていた。
 それ、行くぞ。とハカセが意気込んで、ノートパソコンのエンターキーを力強く押した。受け皿がゆっくりと回りだして、中が赤みを帯びた光に満たされる。このまま一分くらいしたらチンッという音がして手紙が温まっていたら面白いんだけどな、と思いながら手紙をじっと見続ける。どう見ても電子レンジで温められているだけにしか見えない。
 だが、やがて異変が起こった。
 シュボッ。
「おおっ」
 手紙に突然、火がついた。
 突如、私の背後でハカセが頭を抱えて絶叫した。
「なんと!!! も、も、燃えた!!!」
 なんだ、想定外だったのか。ハカセの反応に思わず失笑したのも束の間、いきなりハカセが消火器を持ってタイムマシンに向かって構えた。もちろんタイムマシンの目の前で事の成り行きを見守っていた私も射程内に入っている。
「やめっ…」
「消えろ炎よ!!!」
 白い粉が勢いよく噴出して、私ごとタイムマシンを包み込んだ。
 何とか火災には至らなかったものの、タイムマシンは消火剤まみれで、おじゃん、になっていた。タイムマシンの扉を開けて中を取り出すと、手紙のほとんどが焼けてなくなっている。どうやらタイムマシンの実験は完全に失敗に終わったようだ。
 タイムマシンと同じく消火剤まみれになった私に、お風呂を沸かそうかとハカセが言ってくれたけれど断った。さすがに他人の家でお風呂に入るのは気が引ける。第一、自宅はすぐ隣だ。
 ハカセの部屋を出ると、廊下に同じアパートに住む住人が怒りの表情で待ち構えていた。私には目もくれずに302号室のおばさんがハカセに詰め寄った。
「なんなんですか、毎日毎日騒がしい! いい加減に静かにしてくださいと、何度言ったらわかるんです!」
 ハカセがうろたえるのを良いことに他の住人たちもハカセに詰め寄る。まるで、台風か何かで電車が不通になった時に理不尽な怒りを駅員にぶつける人々のように、ハカセの胸倉を掴んで怒声を浴びせかける。ハカセは弁明もせずにひたすら謝っていた。それを見て、なんだか不憫に思いつつも巻き込まれるのを嫌い、私はこっそりと自宅へ逃げ込んだ。


 あの日の一件が致命的だったようで、三日後には大家さんまで登場してハカセは退去を迫られ、ついにアパートを去ることになった。ハカセと唯一仲の良い一家として私たちはハカセの引越しの手伝いをした。変てこな発明品を大事そうに引越し用の段ボール箱にしまっていくハカセを見て、少し哀れな気持ちになった。
 ハカセの部屋には発明品の他にも、亡くなった奥さんの遺品や生活用品がたくさんあったので、それらを全部片付けるのに時間が掛かった。次の住居を決めるのにも時間がかかり、退去を迫られてから一週間ほどしてようやく引越しの準備が全て整った。
「君たちにはこれをあげよう」
 車に荷物を載せ終わった後、そう言ってハカセは私と弟に、室内用のプラネタリウムみたいなものを差し出した。例の、音楽に合わせて光が踊るあの機械だ。
「いいんですか、ありがとうございます」
 と、弟は素直に喜んでいたが、私はそう簡単にただの善意とは受け取れない。これはハカセの自信作のはずだ。ただのおふざけの発明でないことは私たち姉弟が一番、誰よりも知っている。それを渡してしまうなんて、なんだか私にはハカセが発明と研究への情熱を無くしてしまったような気がして、寂しくなってしまったのだ。
 ハカセを見送った後に私はもらった機械を大事に抱えて自分の部屋に戻った。もう夕方になりかけていて、西に面した私の部屋の窓からは夕焼けが差し込んでくる。カーテンが、初夏の夕暮れの風を受けてなびいていた。
 早速弟がやって来て光楽器を使おう、と言った。ちなみに光楽と言うのは私達が勝手に名付けた呼称だ。私もハカセが名残惜しかったから承知して、さっそく機械の準備をした。コンセントに繋いで、一方のコードをCDプレイヤーに連結させて音楽を再生するだけで、音楽に合わせて色とりどりの光の踊りが部屋を満たす。ハカセが好きだった名前も知らないクラシック音楽を掛けて、弟と一緒に床に寝転がりながらしばし、光と音のイルミネーションにうっとりとしていた。
 クリスマスになれば活躍するんじゃないだろうか。ジングルベルの曲に合わせて赤や緑の光が宙を舞うように光り輝けば幻想的な画になるに違いない。せっかくハカセがくれたのだから、どこかで、何か使い道を探したい。十月の真ん中に文化祭がある。どうにかしてそれに活用できないだろうか。
 そう思っていると、突然、変な音がした。ギリギリと鉄が軋むような音がして、その次に、バズンッ、と何かが破裂するような音。そして空気が焦げたような匂いが部屋中に立ち込める。
 まさか機械が壊れたんだろうか。不安になってすぐにスイッチを止める。と、そのとき。何かが落ちてきた。紙切れだ。手にとって見るとそれは、あちこち焼け焦げた紙片で、見慣れた字で「日後の私」と書かれていた。残りの部分は焼けていて読めない。そうだ、あの手紙は燃えたから。
 それに気付いたとき、背筋がゾクッと震えた。

 

(了)


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