席盗り合戦

2011年6月26日



 

 ちっきしょう、混んでやがるなあ・・・。

 浜崎昇平は、ホームで電車を待つ黒山のような人だかりを見て、思わず舌打ちした。

 浜崎は三十五歳の、中堅企業に勤めるサラリーマンだった。ごく平均的な収入を得て、去年、同じオフィスで働いていた四歳年下の真奈美と結婚した。新婚気分は半年間で薄れ、最近ではやや会話が少なくなってきている。

 腰をさすりながら浜崎は、電車を待つ列の一番後ろに並んだ。列は二列で、それぞれ八人程並んでいる。

 ・・・あのババア、重箱なんかぶつけやがって、ちくしょう、痛えなあ・・・。

 今朝の改札口で後ろからものすごい勢いでやって来た老婦人が、浜崎の腰に固い重箱の角をぶつけて行った。謝りもせずにそのまま過ぎていった老婦人を呪うよりも、腰の痛みのほうが激しかった。

 年を取ったなあ、と思う。今まではこれくらいで腰痛にはならなかったのだが、今はじんじんと痛むのだ。

 電車がゆっくりとホームに入ってきた。今日ばかりは恥も外聞も無く、何が何でも座らなければ、と浜崎は決心していた。人を押し退けてでも座席を獲得したかった。

 ドアが開く。まず、下車する人々が溢れ出てくる。通勤ラッシュの時間帯だが、降りてくる殆どは高校生か中学生だ。ちょうど浜崎が毎日利用するこの駅の近くに県内でも有名な中高一貫のマンモス校があった。

 人が降り切った後にホームで待っていた人々が乗車する。浜崎は乱暴に食い込んで車内に飛び込んだ。入ってすぐ横、ドア付近の席が空いていた。よし、ここに座ろう。そう思ったとき、浜崎の横をすり抜けるようにして二十代くらいのリクルートスーツを着た細身の男がその席に座った。

 ・・・な、なんだこいつは。俺より若いくせに座りやがって!

 だが怒るよりも席を見つけるために視線をめぐらすほうが優先である。次に、ちょうど真ん中辺りの座席が二人分ほど空いていた。よし、あそこならいいだろう。一人座ってもまだ空きがあるんだから。

 やや足早にその席へ向かったとき、不意に、ズボンの裾が引っ張られた。なんだ、と思って振り返ると、黄色い帽子をかぶった背の小さい、小学校低学年と思われる女児がズボンにしがみ付いていた。浜崎と目が合うと、その女児はにっと歯を見せて笑った。

 なんだこのガキは・・・?

 と思った瞬間、同じ様に黄色い帽子を被った女児二人が、浜崎の狙っていた座席に飛び乗るようにして座った。腰の幅が小さい小学生だから、まだ少しスペースがある。しかし、浜崎が座れるほどではない。その僅かなスペースに、つい今までズボンにしがみ付いていた女児が座った。

 ガキどもめっ!

 だが、まだ他の座席が空いていた。ドア一つを挟んだ先のやや遠い位置だが、三十センチほどの隙間がある。その目の前には太った男性が立っていて、誰も座っていない。あの男では三十センチの隙間に座ることはできないだろうし、押しのけてまで座る人は、自分のほかにはまだいないようだ。

 よし、あそこだ。

 そう思った浜崎は、今度は駆け出した。するとその時、浜崎の十五メートル後方で、ちょうどホームから改札へ続く階段を駆け下りてきていた女子高生が、剛球豪打のメジャーリーガーもかくやの構えで大きく振りかぶると、学生鞄を放り投げた。空気抵抗が大きく、教科書や化粧品が詰まっていて重いはずの鞄は、しかし、時速百二十キロ近い速度で車内に立つ人々の頭上を飛び越え、浜崎の耳すれすれを横切り、窓枠にぶつかり跳ね上がり、座席の上の網棚にぶつかって落下し、浜崎がまさに座ろうとしていた座席を占拠した。投球フォームの革命が無駄に起こった瞬間だった。女子高生は余裕の表情で乗り込むと、自分の鞄があるその座席に座った。

 なんなんだこの小娘はっ・・・!

 誰も驚いていないのが不思議だった。

 浜崎は歯軋りした。すると、優先席から足の弱そうな男性が立ち上がりホームに下りていくのを見た。当然、その座席は空いている。何故か優先席と言うのは周囲の人が遠慮して、空いてもしばらく座られない場合が多いのだ。

 浜崎は全速力で走り、その座席に座った。ドアが閉まり電車が走り出すと、浜崎は大きく息を吐いた。

 やれやれ、ようやく座れたな・・・。しかし、走ったせいかな、ちょっと下着がずれたぞ、くそっ、座り心地が悪いな・・・

 ズボンの中に手を突っ込んで下着の位置を直そうと腰を浮かしたとき、目の前に誰かが立った。ふと見上げると、それはあの、重箱を持った老婦人だった。はっきりと、目が合った。老婦人は、浜崎が腰を浮かしているのを見て、言った。

「あらあら、すいませんねえ」

 老婦人が言った。周囲を見ると、優先席には自分以外、年配の人々しか座っていない。

 席を譲るために立ち上がるとき、腰が、ズキズキと痛んだ。

 

 (了)


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